研究プロローグ

林 敏彦教授

(経済政策)

安保闘争の余燼(よじん)さめやらぬ1962年、岡山朝日高校から京大経済学部に入学。「正義感とヒューマニズムに駆り立てられ」デモなどにも参加していたが、活動が学外の政党に操られていることや、粉砕、反対と叫ぶだけでは戦略的に損ではないかと疑問が湧き、しだいに離反、同時に国際的なイメージもあった近代経済学が「きらきらして見えてきた」と振り返る。
当時、京大はマルクス経済学の牙城だったので、近代経済学の学生は阪大の大学院に行くルートができつつあった。阪大経済学研究科で、熊谷尚夫教授に師事し、68年からはフルブライト奨学生としてスタンフォード大学に留学。ノーベル賞のケネス・アロー教授のもとで数理経済学を研究し、Ph.D.を取得した。神戸商科大で教えた後、「書斎を出て現実の問題と格闘する"やくざな経済学者"、蝋山昌一教授(前OSIPP教授、現高岡短大学長)にひかれて」阪大に。

京大時代はギタークラブを旗揚げし、学生運動とは距離を置くようになったが、当時の学生運動家の多くは、「ハシカだったかのように、その後高度成長の戦士として保守化」。他方、こぶしではなくタクトを振りあげていた学生の方が(=写真左)、今や学者として、社会制度の矛盾に対し、影響力を行使できるようになった。研究の原点であった「青い正義感」は共通していたが、それを具体化する戦略と、「細くしつこく持ち続けてきた」一貫性が違っていたわけだ。
また、「数字に人の顔を見る」という姿勢も当時から。「失業率何%という数字の後ろには今日にも首をくくろうとする人がいることを忘れるな」という、ある京大教授の最終講義で聞いた言葉にショックを受け、以後、阪神大震災の経験も通じて、人間味、あたたかみという視点が研究にも反映している。
研究科長の職は3月に離れたが、「その間の(原稿依頼などの)負債が溜まっていて」、当面は相変わらず多忙の日々だそう。


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