研究プロローグ

森本 益之教授

(刑法、刑事政策)

父親が満州で戦死、中学まで高知の農家で育ったが、高校のとき、叔父を頼って大阪に出た。法律との出会いは、生活のため、たまたま弁護士事務所に勤めたのがきっかけ。弁護士もいいなと思い始め、1960年、自活しながら同志社大学法学部へ進学。転機となったのが、そこで受けた瀧川春雄・阪大教授(後、大阪高裁判事、1979年死去)の刑法の授業だった。
昭和8年、学問の自由への侵害として有名な「瀧川事件(京大事件)」が起きたが、瀧川春雄教授は、この事件で京大を追放された瀧川幸辰(たきかわ・ゆきとき)教授の長男だった。幸辰教授に始まり、春雄教授が受け継いだ「瀧川刑法学」の精神は、「罪刑法定主義を重視し、国民に対する国家権力、刑罰権の濫用をどう防ぐか」という点にあった。当時、「悪いやつは処罰されて当然ぐらいにしか思ってなかった」学生にとっては、「目からうろこが落ちる思い」がしたと言う。
その後、阪大の法学研究科に進み(=写真右)、瀧川教授の下で学ぶが「司法試験と大学院の研究は両立しない」とクギを刺され、以降、刑法学の研究に専心。博士後期課程に在籍中、島根大学の助手に採用され、同大で刑法、刑事政策を担当。90年に阪大教養部に転任し94年からOSIPP。
勤労学生としての生い立ちも影響してか、社会的弱者、虐げられたものへの共感が常に根底にある。その点は、国民の側に立つリベラルな「瀧川刑法学」とも通底している。「犯罪者を異端の別世界の人間として扱うべきでない。我々にも同じ血が流れており、自分たちの中にも『犯罪性』は潜んでいるのだから」と犯罪者や受刑者らの「忘れられた人権」の問題に取り組んできた。また近年は特に被害者の保護・人権の問題にも関心を注ぎ、90年の日本被害者学会の設立にあたり、発起人の一人となった。さらに「刑事政策の国際化は最近の潮流の一つ」であり、今年からOSIPPで「国際刑事法」の授業も開講している。
小さい頃から「本キチ」と呼ばれたほどの読書好きで、高校時代は文芸部の部長だったと言う。「定年後のささやかな夢は、弁当持って図書館に通うことかな。その時は刑法より他の本を読みたい」。そう笑いながらも、幸辰教授の発禁本『刑法読本』を大事そうに書棚に戻していた。


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