院生群像

チマンガ コンゴロさん

コンゴ(旧ザイール)出身の留学生

国際知的所有権を研究

  OSIPPには留学生が多いが(21人、全体の15%)、アフリカ出身者はコンゴロさん一人。日本滞在はもう7年目。目下は博士論文の追い上げに忙しい。
何でも「新しいことが好きだ」という。日本に来た理由も「変わったところで勉強してみたかったから」。国立キンシャサ大学法学部を卒業後、弁護士をしていたが、国費留学生の募集に応募して1991年に来日。新潟大学法学部、阪大法学研究科で研究生として学び、95年同研究科修士課程を修了。同年からOSIPPの博士後期課程で研究を続けている。
研究テーマは、発展途上国の国際知的所有権について。江口順一教授のもとで、特にWTOのTRIPs協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)が途上国に適用された場合の問題を分析している。「先進国主導でできたこの協定は途上国の状況が考慮されていない」という建設的な批判がその根底にある。
母国では今年政変があり、国名もザイールからコンゴに変わった。「モブツ時代、ザイールの経済は悪かった。クーデターがいいとは思わないが、新政権下でみんなの生活がよくなればいい。そんなに悲観してません」と語る。「帰りたいが、もう少し外で経験積みたいので、日本で仕事を探したい」という。
日本は「お互いにrespectしあい、disciplineのある国」だが、「もう少しアフリカを知る努力をして、ちゃんとしたイメージをもって欲しい。動物のイメージしかないようで…」と苦笑する。「一歳でボールを蹴りはじめた」ほどのサッカー好き。大阪の外国人チームにも入っているが、最近は机に向かうことが多くちょっと残念がっている。


偶感

どこか、凶凶(まがまが)しい空気がある。「宗教とかあまり信じませんが、何か虐殺の霊とでも言うんでしょうか…」。同行のI記者も、こんな特別な雰囲気の町は初めてだという■先月、スレブレニッツァの町を訪ねた。ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人共和国内にあるこの町は、1995年7月、セルビア人勢力により陥落した。その際、数千から一万人近いムスリム人が虐殺されたとみられ、旧ユーゴスラビア紛争中、最大規模の戦争犯罪とされる■首都サラエボから車で約3時間、キリル文字で書かれた町名標識をこすと、朽ちた工場跡が見えた。国連保護軍(UNPROFOR)の基地だったという。ほどなく、町役場前に着く。庁舎はイスラム様式の見栄えのする建物だ。紛争前はムスリム人が多数派だったことをうかがわせる。今はムスリム人は一人もいない。山間に伸びる市街地はしかし、さほどひどい壊れ方をしているわけではなかった。カフェもあるし、市場では一応、野菜や雑貨がおいてあった■まもなく、この特異な雰囲気の一端がわかった。人々の視線だった。監視する窓越しの目、気力のない茫然としたまなこ、投げやりなとげとげしい眼光。住民の多くはここに逃れてきた避難民だった。尋ねると、みな憤然と、あるいは悄然として「帰りたい」と訴えた■セルビア人の現町長によると、今や町民の平均月収は百ドイツマルク(約六千八百円)もないが、一帯は鉱物資源に恵まれ、戦前はかなり豊かな町だったという。彼は、特にこの町に湧く鉱泉「ツルニ グベル」の効用を説き、「昔から薬用として広く珍重されているのに、もうこの町に来る勇気ある人はいなくて…」と自嘲気味に嘆く■取材後、町長からランチに招かれた。アメリカ人の一行なら、まずこんなことはありえないと思われる。テーブルにはセルビア人共和国の軍人らも同席、大向こうの壁からは、額に入ったカラジッチ氏の肖像が睥睨(へいげい)していた■町長は鉱泉が、古来、皮膚病や内臓疾患の人の命を救ってきたと強調していた。(しかし、相殺されるわけじゃないですよね)。私はカラジッチ氏を視野のすみに置きながら、肉料理をのどに押し込んだ。(あ)


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